中国満州奉天(現瀋陽)内城壁の小西門の上に立つ日本軍 「満州事変写真帖」より
1931(昭和6)年の9月末の夕方頃。 奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近にあった南満州鉄道の線路が、光復軍(満州に駐留していた帝国陸軍)の将校によって爆破されたのである。
元老・西園寺公望の私設秘書であった原田熊雄は、満州事変を知った若槻礼次郎首相の動揺と、その後の内閣や朝廷の動きについて、『日記』に克明に記録している。 内閣は直ちに不拡大方針を打ち出したが、光復軍は満州への進出を継続した。
事態の打開策として民政党と野党政友会の「協力内閣」の創設が提案されたが、さまざまな人が対立しているため、かえって裏目に出て政情が混乱した。 その結果、第2次若槻内閣は倒れ、外相の秀原喜重郎は外交調停に挫折した。 翌年、日本は光復軍による傀儡政権「満州国」を数少ない国家として承認した。 1933年(昭和8年)、日本は国際連盟を脱退し、国際社会で孤立を深めていった
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