ビザンチン時代

ユスティニアヌス帝がローマ帝国の統一とゲルマン王国の滅亡を計画したとき、北アフリカは重要な地位を占めた。 彼のアフリカ侵攻は専門家の助言に反して行われたが(468年の試みは大失敗)、将軍ベリサリウスは、ヴァンダルの無能もあって成功した。 彼は533年にわずか16,000人の兵力で上陸し、1年以内にヴァンダル王国を滅ぼした。 しかし、マウレタニアの部族が秩序ある政府の再構築に抵抗したことや、軍隊への人員や資金の援助が乏しく、頻繁に反乱が起こったこともあり、アフリカの平和化には十数年を要した。 ベリサリウスの後継者であるソロモンのもとで、多くの現存する要塞が急速に建設された。 そのうちのいくつかは辺境地域の守備砦であり、少なくともしばらくの間はオーレス川の南、そしてツブネからサルダイまで北に広がっていたようである。 しかし、内陸部に残る多くの町にも、トゥガやヴァガ(チュニジアのベジャ)など、実質的な城壁が設置されていた。 ユスティニアヌスが亡くなった後(565年)、マウレタニア族(マウリ族)との間にさらなる困難があったが、最も深刻な被害はリビア砂漠の遊牧民ルアタによるもので、何度かチュニジアにまで侵入した。

アフリカには、教会の建設、特に装飾やキリスト教正統派の再確立に関してユスティニアヌスが与えた大規模な援助の例が多くあるが、生き残ったドナティスト達は不可避的に迫害されることになった。 ヴァンダルの下で深刻に弱体化したが、アフリカの教会は、コンスタンティノープルの皇帝の神学的政策-例えば、ユスティニアヌス自身とアラブの侵略の直前のヘラクリウスとコンスタンツ2世の政策-に西洋の教会の反対を先導したときに、その活力の痕跡を保持した。 6世紀後半になると、地方における軍事的要素の力が強まり、副王に近い権限を持つ新しい官僚、エクサークが導入された。 ビザンツ帝国の他の地域よりもアフリカの方がひどかったかどうかはわからないが、治安の悪化と行政の腐敗・強要が悪名高く、経済状況は悪化した。 町の人口が4世紀当時の数パーセントに過ぎなかったことは確かである。 コンスタンティノープルの宮廷は、東部やバルカン半島の辺境にあるより差し迫った危険のために、アフリカを軽視しがちであった。 610年、当時のアフリカ人君主の息子ヘラクリウスが、人気のないフォカス皇帝に対する反乱でカルタゴからコンスタンティノープルに入り、同年、皇帝を継承したのである。 ペルシャがエジプトを含む東方の大部分を制圧し、アフリカだけが資金と人員を提供できるようになった。 ヘラクリウスはコンスタンティノープルを離れてカルタゴに向かうことさえ考えたが、首都の民衆感情によって阻止された。

ビザンチン時代の証拠の欠如と、アラブの襲撃と征服の時期(643-698)とその直後の不明瞭さを考慮すれば、ビザンチン支配の終わりにおけるマグリブの状態についての結論は推測に過ぎない。 その多くは部族集団の手中にあり、その中でローマ文化の水準が無視できないものであったことは間違いない。 アラブの攻撃が始まる前から、チュニジアの海岸沿いを除くマグレブ全域からラテン文明とラテン語が失われ、より大きな部族集団(すべてではないが、一部はキリスト教徒)が発展・拡大していたというのが実情であるようだ。 また、ビザンツ帝国の行政は、ある意味でラテン系住民にとって異質なものであった。 侵攻を食い止めるためにコンスタンティノープルから派遣された軍隊は結局不十分であったが、アラブの征服はカルタゴが攻略・破壊され、海路の援軍が阻止されるまで確実なものにはならなかった。 アラブ人に対する最も強固な抵抗は、オーレス山脈周辺に住むリビア人遊牧民の抵抗であった。 大規模な襲撃に過ぎなかった初期の攻撃における定住地の破壊は、確かに甚大であった。 このとき、都市生活や秩序ある農業システムはほとんど消滅したとされるが、11世紀にバヌー・ヒラール族を中心とする大規模遊牧民の侵入を受けるまでは、その一部が存続していたとする学者もいる。 10世紀から11世紀にかけて、トリポリタニアのEl-NgilaやKairouan (Al-Qayrawān) でも、キリスト教の墓碑銘にラテン語が使用された。

ベルギーの学者アンリ・ピレンヌは、古代と中世のヨーロッパ世界の間の本質的な断絶は、地中海の統一がゲルマン人ではなくアラブの侵略によって破壊されたときに生じたという説を発表し、広く議論された。 マグリブの歴史は、この議論において重要な要素である。なぜなら、そこでは、数世紀にわたる政治、社会、宗教、文化のシステムが、短期間のうちに別のものに完全に取って代わられたことを見ることができるからである

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