ブルーノ・ハウプトマン(Bruno Richard Hauptmann)、1899年11月26日、ドイツ、ザクセン生まれ-1936年4月3日、ネザーランド、トレントンにて死去。

ハウプトマンは小学校と専門学校に通い、14歳のときにゲル州カメンツで大工になった。 第一次世界大戦中はドイツ軍に従軍(1917-18)。戦後は強盗に走り、1919年に住居侵入で有罪判決を受け、1922年には盗品所持で逮捕された(裁判前に逃亡)らしい。 1932年3月1日の夜、ニュージャージー州ホープウェルのリンドバーグ家で、リンドバーグの赤ん坊を誘拐した犯人は2階の子供部屋にはしごで上がり、5万ドルを要求する身代金メモを残していった。 新聞広告でいろいろと連絡を取り合った後、ニューヨークの退職教師ジョン・F・コンドンが、4月2日の夜、ニューヨーク市ブロンクスの聖レイモンド墓地に身代金を届け、赤ん坊の返還を約束したのである。 しかし、赤ちゃんは誘拐直後に死亡し、5月12日にリンドバーグ家の近くで遺体が発見された。

その後、捜査が行われ、身代金請求書のシリアルナンバー(多くは金券)が公表された。 2年以上経った1934年9月15日、ハウプトマンはブロンクスのガソリンスタンドでその紙幣の1枚を渡している。 2170>

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ニュージャージー州フレミントンでの裁判。 1935年1月2日から2月13日にかけてニュージャージー州フレミントンで行われた裁判で、ハウプトマンに対する主な証拠は、(1)取り戻した金、(2)ハウプトマンの家のクローゼットの壁に仲介者のコンドンの電話番号を発見、(3)リンドバーグの家の近くや墓地でハウプトマンを見たという目撃者による特定、(4)誘拐に使用したはしごにハウプトマンの屋根裏から失われた板が取り付けられていたことの発見であった。 ハウプトマンは、自分は友人で1933年にドイツに戻り死亡したイシドール・フィッシュのために金を預かっていただけだと反論した。

Lindbergh baby kidnapping

Charles Lindbergh testifying at the murder trial of Bruno Hauptmann, January 1935.

New York World-Telegram & Sun Collection/Library of Congress, Washington, D.C. (digital. id. cph 3c09416)

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