AMCのケーブルテレビシリーズ「TURN」やベストセラー『George Washington’s Secret Six: the Spy Ring that Saved the American Revolution』が牽引して独立戦争におけるスパイが最近人気だが、スパイがキャンペーンなどの結果に与えた影響は時に誇張されていることがある。 私は最近出版した『Spies in Revolutionary Rhode Island』(History Press, 2014)で、2つの例を取り上げている。

独立戦争で知られる数少ない女性スパイの一人であるアン・ベイツは、フランス軍とアメリカ軍が初めて協力してイギリスの前哨基地を攻撃した1778年7月から8月のロードアイランド作戦でイギリスのためにスパイを行った。 この共同遠征はニューポートを守るイギリス軍守備隊の捕獲には失敗したが、1778年8月28日のロードアイランドの戦いではアメリカ軍が善戦した。 ベイツは、ロードアイランドに足を踏み入れることはなかったものの、英国の指揮官に貴重な情報を提供した。 しかし、一部の歴史家が主張するように、彼女がイギリスの勝利に決定的な役割を果たしたわけではない。

1748年頃に生まれたベイツは、フィラデルフィアで学校の教師として働いていた。 夫がイギリス軍の兵士で銃の修理工であったため、彼女は武器について学び、敵の大砲や兵士、補給品の総数など、軍事情報の重要性を学んだ。 英国がフィラデルフィアを占領していたある時期、アン・ベイツは、英国のヘンリー・クリントン将軍のスパイ網で活躍する民間人、ジョン・クレイグ(クレイギーまたはクレッジと呼ばれることもある)と会っている。 クレイグは、彼女が知的で機知に富み、スパイとして成功するのに適したタイプであると、正確に判断していた。

ベイツ家の世界が大きく変わったのは、北米のイギリス軍の新しい司令官となったクリントンが、フランスとアメリカの同盟とチェサピーク湾にフランス艦隊が間もなく到着するという知らせを受けて、フィラデルフィアからの避難を決定したときであった。 1778年6月18日、ニューヨークへ向けてフィラデルフィアを出撃したクリントン軍に夫が加わった後、アンもそれに続いた。 6月26日頃、イギリス軍司令部のある街に到着した彼女は、クレイグに会いたいと頼んだ。 代わりに、彼女はクリントンのスパイの手先の一人であるダンカン・ドラモンド少佐に会わされた。 ドラモンドとクレイグは、ベイツに英軍のスパイになるよう説得した。 ドラモンドはその後、「クレイグがよく信頼している女性が昨夜街にやってきた。 彼女は陸軍の多くの者と顔見知りである。…ワシントン陣営に「ちょっとしたことを売るという名目で彼女を送り出すことを提案している」そこで「彼女はチェンバースと会話し、知るに値することを知ったならばいつでも戻ってくるだろう」。 クレイグは後に、ベイツをダンカンの目に留まらせたことで、英国諜報部から高額の発見料を受け取った。

わずか1日の訓練の後、6月29日にアンは最初の任務でニューヨークを発つ。 ベイツは「バーンズ夫人」という名で、行商人に変装していた。 糸、針、櫛、ナイフ、薬など、行商人の荷物に必要なものを買うための費用として5ギニアが渡された。 7月2日、彼女はニューヨークのホワイトプレーンズにあるワシントンのキャンプに到着した。 バーンズ夫人」として、アメリカ兵やキャンプに参加する人々の間を自由に行き来した。 ベイツはドラモンドから、チェンバースという名の不忠実な兵士を見つけ出し、彼から有益な情報を得るように指示されていた。 しかし、ベイツはチェンバースを見つけることができなかった。 そこで、ベイツは作戦を変更し、有用な情報を聞き出すことにした。 会話を聞き、銃座を探し、大砲の数を数える。

ベイツは、ワシントン軍がロードアイランドのアメリカ軍を増強するために大陸の連隊を東に送っていた時期に、スパイ活動を開始した。 1778年7月29日、ドラモンド少佐はベイツをホワイトプレーンズに送り返した。 彼女は行商人バーンズ夫人に変装したまま、軍の検問を何度も回避・通過し、ようやくワシントン陣営に到着した。 彼女はまたもや連絡係のチェンバースの居場所を突き止めることができなかった。 (ベイツはそれから3、4日、アメリカ軍キャンプ内を歩き回り、「119門の大砲」を数え、兵士の数は2万3000人と推定した。 彼女は10台の荷馬車が「負傷者を乗せて」キャンプに入ってくるのを目撃している。 また、アメリカ軍の旅団の位置も説明した。 ワシントンの本部として一時使われていた住居にも果敢に入り、司令官を発見したが、そこで有益な情報を得ることはできなかった。 しかし、ロードアイランドにはまだアメリカ軍が派遣されていないことを知らされた。 「8月6日にベイツがニューヨークに戻った後、ドラモンドは「彼女は彼らの中に滞在している間、ロードアイランドに派遣された分遣隊を知ることも見ることもできなかった」と書いている

アンベイツについて報告したダンカンドラモンド少佐のメモランダム帳からの抜粋。 出典はこちら。 Library of Congress

そのわずか2日後、ベイツは3度目のホワイトプレーンズに送り返され、8月12日に到着した。 ワシントン本部で、彼女は将軍と思われる将校がワシントンの副官(おそらくアレクサンダー・ハミルトン)に、5,000人の軍隊によるロングアイランド侵攻のために600隻の船が準備されている(この試みは行われなかった)ことを伝え聞いた。 彼女はまた、約3,000人のコンチネンタル軍と2,000人の民兵がロードアイランドに向けてキャンプを出発したことも知りました。 ベイツは、3,800人の「選兵隊」がドッブスフェリーに向かったため、アメリカ軍キャンプは「最初に行ったときほど多くはなく、そのパレードも半分ほどしかなかった」と述べています。 彼女は、ワシントン軍の兵力が16,000か17,000人にまで落ち込んでいると推測していました。

ベイツは自分の役割を誇りに思い、1785年に年金の嘆願書に「私のタイムリーな情報は、さもなければ敵の餌食になっていたであろうロードアイランド守備隊とすべての兵員や物資を救うための恵まれた手段であった」と書いた。 ダンカン・ドラモンドはベイツの嘆願書の審査を依頼され、「彼女は厳然たる事実以外何も主張していない」、「彼女の情報は…他のあらゆる情報よりはるかに優れていた」と観察しています。 ポール・R・ミセンシックは最近、スパイに関する本の中でアン・ベイツのスパイ活動の詳細な歴史に1章を割き、ロードアイランド作戦における彼女の決定的な役割とされる部分に基づき、彼女をイギリスの「最も有能な」スパイと呼んだ

ロードアイランド作戦におけるベイツの役割は誇張されてきた。 最も重要なのは、その時期がずれていることだ。 1778年7月22日早朝、ロードアイランドのジェームズ・ヴァーナムとマサチューセッツのジョン・グラヴァーが指揮する大陸軍旅団、合計2500人の兵士が、ロードアイランドへの160マイルの旅に出発した。 その日の朝、ワシントンはマルキ・ド・ラファイエット少将を部隊の指揮官に任命し、若いフランス貴族はラファイエットを捕まえるために疾走せざるを得なくなった。 ラファイエットの大陸軍は、8月8日にアキドネック島への侵攻の中継地であるロードアイランド州ティヴァートンに到着した。 従って、ベイツが8月6日にドラモンドに、アメリカ軍はまだロードアイランドに向けて出発していないと報告したのは誤りであった。 さらに、ベイツは次にホワイトプレインズ陣営を訪れた8月19日、ドラモンドに大陸軍2旅団の動きを伝えた。 ベイツが8月19日にクリントン本部に戻り、遅ればせながらロードアイランドへのアメリカ軍の移動を警告すると、この情報によりクリントンはニューポート守備隊を強化し、ニューポート外のフランス・アメリカ連合軍を撃破したと言われている。 しかし、フランス艦隊が7月29日にナラガンセット湾の外に到着していたため、クリントンは8月にニューポートに援軍を送ることはなかったから、これは正確ではないだろう。 7月9日、クリントンはフランス艦隊が到着するとニューポートが攻撃にさらされることを懸念し、リチャード・プレスコット少将率いる約1850人の軍隊をロングアイランド海峡を通ってニューポート守備隊を強化するために船で送ったのであった。 しかし、これはラファイエットの大陸軍が7月22日にロードアイランドに向けてホワイトプレインズを出発する数週間前のことだった。

それにしても、アン・ベイツは驚くべき女性で、貴重なスパイであった。 体力的にきつい持ち場を休みなく移動し、大陸軍の多くの検問所を通過する彼女の能力は印象的であった。 ベイツの努力は、女性が貴重なスパイになり得ることを証明した。 軍事の複雑さを理解できないと思われていた彼女たちは、しばしば秘密情報を耳にすることができたのである。 単なる物売りを装って、ワシントン本部にまで入り込むことができたのだ。 ベイツは、ワシントン陣営への3回の出張に対して、20ドル、31ドル、30ドルの報酬を得た。

イギリスのスパイ、アン・ベイツは、1778年から1780年にかけて密かに任務を遂行しつづけた。 1778年9月、彼女がワシントン軍に潜入する別の任務の際、イギリス軍第27連隊の脱走兵が彼女に気づいたが、彼女は捕縛から逃れることができた。 しかし、この出来事をきっかけに、アンはワシントン本部への潜入を中止した。 その後、アンはベネディクト・アーノルドを寝返らせた女性秘密工作員をフィラデルフィアからニューヨークまで護衛することになった。 ハドソン川のニュージャージー州の岸辺まで、隠れ家がいくつもあり、女性スパイの避難場所となっていた。 嵐とパトリオットの斥候による発見を避けるため、女性スパイはロイヤリストの家の地下室に3日間隠れなければならなかった。 ベイツはまた、フィラデルフィアの海運と「反乱軍」製粉所の小麦粉の量について上官に報告した。

1780年5月の英国によるチャールストン占領に伴い夫が派遣されると、アンは軍隊とともにサウスカロライナへ向かったが、それ以上のスパイ活動には従事しなかった。 夫妻は1781年にイギリスへ出航した。 その後、夫に捨てられ、経済的に困窮した彼女は、戦時中のスパイ活動を理由に、英国政府に少額の年金を嘆願することに成功する。

// 上部の画像は特集。 砦で備品を配達する女性(1782年)。 出典 New York Public Library

Christian McBurney, The Rhode Island Campaignを参照。 The First French and American Operation of the Revolutionary War (Yardley, PA: Westholme, 2011), passim. Undated note, probably by Major Duncan Drummond on June 28, 1778, Henry Clinton Papers 234:27, William L. Clements Library.(1778年6月28日、ダンカン・ドラモンド少佐による日付未記入のメモ)。 このメモの筆跡は、下記注に記した英国諜報機関のメモ帳と同じものである。 アン・ベイツに関する情報は、特に断らない限り、British Intelligence Memorandum Book, July 21-November 10, 1778, MMC-2248, Library of CongressとPetition of Ann Bates, March 17, 1785, British Treasury Papers, In-Letters, T1/611, British National Archivesから引用している。 ベイクレスもこれらの資料に依拠し、ミセンシックは主にベイクレスに依拠した。 John Bakeless, Turncoats, Traitors and Heroes (New York, NY: Da Capo Press, 1975), 252-58 and Paul Misencik, The Original American Spies.を参照。 Seven Covert Agents of the Revolutionary War (Jefferson, NC: McFarland, 2014), 78-86を参照。 筆者の知る限り、ベイツの嘆願書とそれを裏付ける文書は、米国内のどの図書館や公文書館にも所蔵されていない。 情報書の著者が誰であるかは定かではないが、おそらくドラモンド少佐の筆になるものであろう。 Journal, August 6, 1778, British Intelligence Memorandum Book, MMC-2248, Library of Congress.Ibid., August 19, 1778. Ann Bates’s claim for compensation, March 17, 1785, British Treasury Papers, In-Letters, T1/611, British National Archives.同上、1778年8月19日。 Misencik, Seven Covert Agents, 86. McBurney, Rhode Island Campaign, 78. Bakeless, Turncoats, Traitors and Heroes, 257; Misencik, Seven Covert Agents, 85. McBurney, Rhode Island Campaign, 76. Undated entry (near end of the book), British Intelligence Memorandum Book, MMC-2248, Library of Congress. Journal, undated (about September 30, 1778), British Intelligence Memorandum Book, MMC-2248, Library of Congress.日本語訳:「日誌」、1778年9月30日頃、英国情報部備忘録帳、MMC-2248、米国議会図書館。 また、Petition of Ann Bates, March 17, 1785, British Treasury Papers, In-Letters, T1/611, British National Archives(「私を知っている英国の脱走兵が私が誰であるか情報を与えたので、スパイとして捕まるのを恐れて急遽撤退せざるを得なかった」)も参照されたい。 Bakeless, Turncoats, Traitors and Heroes, 258-62; Misencik, Seven Covert Agents, 86-91.

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